二胡絹弦の販売 - 弦堂
これは、デリケートな問題です。
多くの方は、異国情緒に満ちた二胡の音に惹かれて、この楽器を手にしたのかもしれません。
それで、老師の指導など受けつつ、中国の多くの作品を演奏していきます。
それで、個人的には満足できますが、中国人に率直な意見を求めると「違和感がある」と言われることがあります。
これは、言いにくいので、なかなか教えてくれません。
以前に、中国から有名な二胡演奏家の方が来日した時に、リサイタルで、日本人がよく知っている日本のある曲を演奏しました。
私は、それを聴いて、何とも言えない違和感、座り心地の悪さのようなものを感じました。
おそらく、その場にいた聴衆は皆、同じように感じたと思います。
彼女は、日本の伝統的な旋律を非常に正確に西洋の平均律で演奏し、東洋の5音階で演奏しなければならなかったことを知らなかったのです。
私は、新しい老師と初めてのレッスンの時に、水準を確認するために、一曲演奏することになりました。
演奏が終わったら老師は、「他に拉けますか」と質問したので、次の曲を拉きました。
それを繰り返して、ついに5曲目の途中で老師は演奏を止め、決心した様子ではっきりこう言いました。
「あなたは多くの曲が拉けますが、どれ1つとして、正しく演奏してはいない」。
老師は、私の演奏を聴いて、終始、顔を歪めていました。
そうして、レッスンが始まったのですが内容は、私がかつてやっていた西洋風の演奏を脱して、中国の風格を身につけ、どのように表現するか、というものになっていきました。
このように、中国人が日本の文化を、日本人が中国の文化を真に理解するのは、難しいものがあります。
バイオリンは、イタリアの楽器です。
それで、その他の国民にとって、少なくとも黎明期には、"外国の楽器"だったはずです。
交通の発達した現代では、国ごとの違いはなくなってきましたが、かつては、民族によって個性がありました。
それでも、それで良しとされていました。
ですから、日本人が日本のセンスで、中国音楽を咀嚼してもいいはずだという意見が1つあるかもしれません。
しかし、この見解を成立させるためには、条件があります。
優れた自国の作曲家が、輩出されなければならない、ということです。
さらに、それを演奏する巨匠が出てこないといけません。
この条件が満たされないと、何百年たっても、二流、三流から脱出できないとされており、英国はその代表のようなことが言われてきました。
イタリアは、ルネサンス時代の小国の支配者たちが、地中海交易で築いた富を芸術の発展のために消費し、多くの作曲資産が後世に残されています。
20世紀に至るまで、多くの優れた作曲家が多数の作品を生み出し、これによってイタリアは、今日に至るまで、世界最高水準を維持しています。
ドイツ・オーストリアは後発ですが、バッハ以降、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといった優れた作曲家が出てきて、イタリアから完全に独立した文化を築きました。
この2国は、風格が全く違います。
20世紀に入って、イタリア国営放送の幹部たちは、ドイツがなぜ、ドイツ最高の巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを起用して、ドイツ至上最高の大作・ワーグナー「ニーベルングの指輪」(全部録音したら15時間前後)を録音しないのか、不思議に思ったようです。
今、録音しないと後世に優れた資産が残らないので、ドイツのみならず、欧州演奏芸術にとって莫大な損失となる、と考えたイタリア国営放送は、自社のオーケストラにフルトヴェングラーを招聘し、非常に長大なワーグナーのこの作品の録音に取りかかりました。
イタリアは、自国の優れた作品、演奏を積極的に収録していましたが、他国の文化にも深い関心があったというこの姿勢は、見習うべきポイントです。
しかも、この長大なプロジェクトは、時期を改めて、複数回行われています。
何十時間というすごい長さです。
この演奏を聴いた人は、オーケストラがイタリアのものであるという点に驚きます。
イタリアの名手たちは、完全にドイツの風格を身につけ、まさに"ドイツの音"を宙に放つことができたからです。
15時間にも及ぶ他国の作品を、十分に理解していたという点も、ポイントです。
二胡は、中国、シンガポール、日本などで、好まれている楽器です。
日本としては、二胡が中国の楽器なので、中国の文化は尊重できるかもしれませんが、仮に、ロシアあたりで愛好者が増え、そこの演奏者たちが聞き慣れない流儀で、"勝手な事"をやり出した場合、我々がそれに対して、どのように反応するかは、我々の芸術家としての本質が表れます。
イタリア人から見たドイツは、まさにそういうものだったのです。
しかも、ドイツはイタリア以上に多数の巨匠を輩出する強力な国だったので、イタリア人がその成功をにがにがしく思ったとしても不思議ではなかった状況です。
民族によって、それぞれ特徴がありますから、それがどのようなものであれ尊重するのは、真に美しいものを目指している人にとって、必要な特質です。
もし仮に、北朝鮮の優れた芸術家を北朝鮮人だからという理由だけで評価できないなら、その人は芸術愛好者以前に、政治に影響された単なる俗人であることになります。
日本人が中国の作品をどのように演奏するかは各人の問題ですが、どのような理由であれ、中国の風格を身につけようという努力は必要だと思いますし、新鮮な体験につながるので、良いと思います。