二胡絹弦の販売 - 弦堂
二胡を志す方には、プロ(先生になるとか)を目指される方が多いようです。
プロの演奏家を目指すからには、聴く人(或いは、生徒)の心を捕らえる演奏を目指そうと思います。
その過程にはやはり個人の努力は不可欠ですが、成功するための条件として挙げられるものがあります。
演奏芸術の神髄そのものはすでに50年代には極められていますので、その諸条件もすでに明らかになっています。
それゆえ、今や常識的とさえなっているこれらの要素を再考してみたいと思います。
必要とされているのは、これらの要素です。
1,ユダヤ人の末裔
2,自閉症患者
3,音楽一家、或いは家系
4,幼いときから音楽に親しむ環境
5,優れた老師の獲得
6,文化人である
これらの内、複数の要素を持っている必要があるとされています。
1つではだめで、少なくとも2つ必要だということです。
では、1つずつ詳細をみていきたいと思います。
<< 1,ユダヤ人の末裔 >>
世の多くの偉大な巨匠たちがユダヤ人であるので、すでに明白であり疑問の余地はありません。
「血は争えない」ということわざが有るとおり、能力の幾らかは遺伝するものであることがわかっています。
それでは、なぜユダヤは突出した才能を有しているのでしょうか。
彼らの父祖の系譜を辿りますと、記録として残っている演奏家として最古で最も偉大な弦楽器奏者として聖書のサムエル記に記述があるダビデ(ミケランジェロ作「ダビデ像」と同一人物)に行き当たります。
ダビデは、すでに若い頃から王国最高の竪琴の名手として王宮入りしたことが記録に残されています。
以後、彼自身が王位に就き、それ以後にも多くの作品を残しており、それらは聖書の詩編に所収されていますが、その美しい詩が後代にまで残されているのとは対照的に、それらの詩に付けられていた伴奏音楽が完全に遺失しているのは、非常に大きな損失です。
これと同様のことは、その子ソロモンによる雅歌、エレミヤ哀歌にも言え、これらの雅な詩が纏っていた衣がどのようなものであったのか、今となっては知る由もありません。
バッハやタリスといった作曲家がこれらに曲を付けたものが残っていますが、原典は失われたままです。
聖書の歴代誌には、ダビデの王宮の楽団の組織がどのようなものであったのか詳細な記録があり、これによると神殿楽士の数は3000人ぐらいだったようです。
はっきり記録として残されている音楽の系譜は、このあたりから始まります。
以後、周辺諸国の宮廷楽団はユダヤから招かれた楽士によって構成されていたことが、各国の宮廷遺跡に残されていたレリーフから明らかになっています。
このようにオリエント世界のミュージックシーンをリードし続けてきたユダヤ人は、ヨーロッパへも広がってゆき、クラシック音楽の歴史はユダヤを抜きにしては考えられない存在となってゆきました。
欧州古典音楽は、白人(ヤペテ系)の伝統音楽だと思われがちですが実際にはそうではありません。
白人は音楽の能力が最も欠けており、それより上が黒人(ハム系)、最も優秀なのは黄色人種(セム系)だとされています。
インド、アラブ音楽や、フラメンコ、ファドに至るロマ音楽など大きな流れをみれば、それは明白です。
1948年にイスラエルが建国されるまでは、ユダヤ人は故郷であるこの土地に戻ることができず、全世界に散らばっていました。
聖書の申命記29:28によると、もしユダヤ人が神に反逆したなら「彼らを1人残らずこの国から追い出し、情け容赦なく外国へ追いやったのです。」(リビングバイブル訳)と言われるようになると警告されており、ついにキリストを殺害するに至ったユダヤは国を失い、「神様は遠く離れた国を立ち上がらせ、鷲が飛びかかるように、あなたがたを襲わせます。」(申命記28:49)と予告されていたことが成就し何世紀にもわたって迫害され追われていきます。
(注記:聖書は預言書なのでこのような記述は多数ありますが、その成就についてはただ単に後代の事象を都合良く当てはめているに過ぎないという人がいます。しかしこの考えは迷信的であり、聖書に書かれている予告の内、実現に至っていないものはこれから起こることになっているのみに限られており、その的中率は少なくとも過去の分に関しては100%です。これは歴史の地図であり、過去と将来を正確に示している点で恐ろしいものと言えます。神はいない、と言う人もいますが、そうであれば霊というものも存在しないのでしょうか。そうであれば世の中には説明できないものが多数出てくるゆえ、科学的ではないとさえ言えます。気持ち悪いので否定したい方もおられるかもしれませんが、あなたが否定しても事実は消えません。宗教というものに対してどう考えるかはここからまた一歩進める必要がありますが、仮に全人類が宗教を捨てても神が消えるわけではないのは間違いありません。無神論者は世の中の惨状を見て、神はいない、といいますが、その神がこれらすべてを予告しているのです。神が自らの行動を予告している時期が単に無神論者の気に食わないからと言って、神が彼らの言うことを聞かなければならないわけではありません。すべてはすでに決まっているゆえ、ある意味、恐ろしいと言えます。これに対する理解は、どのような背景や信仰を持っているか持っていないかに関わりなく、すべての人にとって重要です。なぜなら、個人が何を受け入れ、何を信じるかに関係なく、すべてのことは決まった通りに進んでいるからです。全人類が無視しても決まった通りにすべては実行されていきます。最近はユダヤのように金持ちになるために聖書を研究する人が多くなっているらしいですが、その効果はともかくそれは聖書研究の第一の理由には普通、なり得ないです。また、数十年前までは聖書を読まない人は優れた芸術家になるのは困難と言われていて、芸術家としての基礎能力を高める目的で学ぶ人もいたわけですが、これはとりあえず間違いないところなので、東洋音楽をたしなむ二胡奏者にとっても重要と言えるかも知れません。しかしこれも主要な目的にはなり得ないでしょう。わかってくると、すごいことが多数書かれているのに気がつくので驚いてその方面に進むことになると思います。入手は難しいですが新世界訳が手に入るならそれがベストで、新共同訳は駄作なので避けますが、本屋で簡単に買えるのはこれなので方法がなければやむなくこれを買うしかありません。私が持っているリビングバイブルはまだ買えるのかよくわかりませんが、これは正確さよりもわかりやすさに重点を置いている感があるので、マストアイテムにはなり得ないと思います。キリスト教徒の大部分は、新世界訳を評価するこの私の意見に反発しますが、反対はギリシャ語本文と照合してから行うべきです。世の多くの神学者は無知です。私はアンチなので、この業界?に入れませんし、入ったこともありませんし、入る気もありませんが、まじめにやりますと皆様もそうなると思います。聖書を研究するとキリスト教世界から出て、足を洗わないといけなくなるということです。驚きですか? そんなことはありません。キリスト教ほど多くの血を流してきた宗教は他にありません。)
話を戻しますが、この結果として彼らは世界に散った同胞というネットワークを持ち、国際政治や金融の分野で今日に至るまで力を持ち続けています。
その初期のものの1つがシルクロードで、これはユダヤ人によって支配されていました。
(中国音楽と西洋音楽は、どのように違いますか?も参照)
このルートから多数のユダヤ人が日本に入り永住しましたが、ここは島国で辺境にありましたから、諸国で追われてきた彼らにとって快適な土地だったのかもしれません。
このサイトの訪問者は、おそらくほとんどが日本人か中国人だと思われますが、このカテゴリに属する該当者がある程度存在すると考えていいと思われます。
<< 2,自閉症患者 >>
このような項目を設けると差別発言などと批判する人が居りますので先に申し上げておきますと、私自身がこの患者として生まれましたので健常者にとやかく言われる筋合いはないということで、話を進めたいと思います。
まず、自閉症患者であるからといって必ずしも優秀とは限りません。
彼らは特に音楽と数学の天才が多いとされていますが、私は音楽は実際点数など付けれるものではありませんのでよくわかりませんが(成績は非常に悪かったですが明確な根拠が分からなかったです)、数学は全く駄目でした。
小学の時から計算がクラスで一番遅く、授業が分からず、しょっちゅう放課後に残されていました。
自閉症患者は、だめなものは徹底してだめという特徴があります。
ユダヤ人は、そういうことはありませんが、必ずしも優秀とは限らない点は同様です。
しかし、自閉症患者に巨匠や天才が多いのは事実です。
彼らが、独特の振る舞いや発言で注目されるのはそのためだと分析される場合が多いです。
この点は、健常者には興味がないと思われますので次へ行きます。
もし、お子様が自閉症患者の場合は上記を留意する価値があります。
<< 3,音楽一家、或いは家系 >>
血統については、ユダヤの項目で説明しましたので、割愛します。
生まれる前から音楽に親しむ「胎教」という言葉もあり、よく知られていますので、説明を省き、次へ参ります。
<< 4,幼いときから音楽に親しむ環境 >>
プロの演奏家の場合は、かなり幼い時から楽器を手にしています。
また、親の職業の関係で多くの演奏家の人々と接する機会が多かった人も大成しやすい傾向が見受けられます。
早く始める価値は、強調してもしすぎることはありません。
<< 5,優れた老師の獲得 >>
よく「自分は人からは教えて貰わない」などという人がいますが、これは物事を軽く考えすぎだと言わざるを得ません。
これまで、多くの巨人たちによって培われてきた伝統があって、脈々と受け継がれているところに、人1人の力で幾ら努力するといっても、比較にすらなる訳がないぐらい常識でわかります。
ずっと素人でよければ結構ですが、楽聖たちですら他から多くのことを学んだのですから、これには見習う点があるかも知れません。
すでにヨーロッパで圧倒的な名声を得たものの、晩年には創作意欲の失われたヨハネス・ブラームスが、ある若いクラリネット奏者の演奏を聴いて、再びペンを取る力を得、死の間際に優れた傑作を残したエピソードは有名です。
また、20世紀最高のソプラノと言われるマリア・カラスは、一般的な噂とは対照的な多くの歌劇場関係者の証言によると「彼女ほど従順で協力的な女性はいなかった」といわれており、すでにスターであった彼女が若い練習指揮者に対してさえ常にそして最も協力的だったことは歌劇場外でも明らかにされつつあり、まさにこの特質がイタリアのオペラ職人たちが彼らの夢と理想を託すのにうってうけの歌手だったのではないか、これが類い希な歌手を生んだ経緯として最近研究されています。
このように色々理屈を並べても、やっぱり習い事につきものの諸問題を考えれば、人から習いたくなくなるのは、もっともなことです。
また、自分にとって良い老師が、本当に良い老師かどうかはわかりませんし、所謂「先生」だけが自分にとって良い先生かもわかりません。
人は、どこで学ぶかわかりません。
多くの啓発を与えてくれる人々に囲まれているのは、恵まれた環境だといえます。
しかし、特定の良い先生に習っているのも、とてもいいと思います。
「学んでも自分で考えなければ、物事はよくわからない。自分で考えるだけで人から学ばなければ、誤りには気づかないままだ。」孔子
<< 6,文化人である >>
特に中国の巨匠たちがよく言うようですが、専門の分野しかやらないのは駄目だと・・、いい物を観賞したり、芝居をみたりするのは、非常に重要だと生徒に教えます。
宜興の有名な茶壺の制作家・顧景舟は、若い制作家たちに苦言を呈し、仕事ばかりやるだけなので人を感動させるものは作れない、と言ったと言われています。
これはもっともで、人を感動させようとする人が、練習ばっかりしてました、とかそんな状態で、他は何も知らないでは都合が悪いです。
「人は欠点を愛する」という言葉がありますがこれは、優れたテクニックをみせつければ確かに人を感心させることはできるが、だからといってそれを愛するわけではない、という点に留意するのに助けになります。
優れた技量はどうしても必要ですが、一方そのようなものを持っている人は掃いて捨てるほどいるのに、なぜ彼らの多くがプロになれないのか、考えるのは重要なことです。
上手な演奏が聴きたければ、或いは音楽を提供する必要がある会社などが、確実に間違いない?音楽を聴かせたい場合、最近はコンピューターに演奏させれば十分ですし、安いです。
プロの演奏家になるためには、そういうものにはない何かを秘めている必要があります。
言いにくいのですが例えば、単に美人だからとか、そういう要素で成功している人がいるのも確かです。
その場合は、文化人でなくても良いか・・わかりませんが、そういうのも1つの鍵だろうと思います。
プロ二胡演奏家になるための条件を考えてみましたが、どうしても自分自身では変えられない要素が多いように思います。
それでも、6は、だれでもできますし、聴いてくれる人たちにも誠実であるといえます。
5も、なかなか状況が変えられなかったり、難しいものがあるかもしれません。
しかし、多くの録音を聴くことで、埋め合わせられるかも知れません。
結局、多くの才能より、このような努力の方が重要かもしれません。
さらにここから一歩進んで、"成功"というものについても考えてみます。
これは結論から言うと「自分が満足できるか否か」という点に集約されると思います。
他人から見て明らかに成功し尽くしている人がいて、その人自身は全くそう思っていないという場合があります。
人によって目指すものが違うので、このような見解の相違はありがちなことです。
商業的に成功し非常に有名な演奏家になったとしても、本人が巨匠になりたいと思っていれば、その人にとっては成功していないとなる場合があり得ます。
その逆もあります。
失意の内に亡くなった巨匠たちは歴史上大勢います。
それで成功とは何か、自分だけが知っているか、おそらくわかっていない、というのが実体です。
巨匠への道は茨の道なので、これを敢えて選択した人はたぶんここを読まなくても多くをすでに理解していると思われますし、そのような目標の人はほとんどいないので、ここから以下は「成功=人気」ということで進めてみます。
ここで重要なポイントは、本質的に「人は成功した人が嫌い」という点を押さえておくことです。
誰からも好かれる人というのは、成功していないという言い方もできます。
これには陰で悪口を言う人は含まれません。
ある人をはっきり公に「嫌いだ」という人が出てくるなら、その言われた人はすでに成功しています。
わかりにくいので別の言い方を試みてみますが、マザー・テレサの名言で「愛の反対は憎しみではない。無関心である」というものがあります。
これと同じです。
強く愛されたり憎まれたりする状態・・・これを成功と言うのなら、失敗とは生ぬるく評価されている状態と言えます。
もしある人が二胡を拉いて、それを聴いた人の中からあからさまに嫌悪感を示す人が出るなら、その演奏者は才能がある可能性が高いです。
本当に下手な演奏者にそういう反応をする人はいないです。
哀れまれるなら、まだまだ先は長いと考えていいと思います。
すべての点で自分にとって都合の良い状況を目指すのは人間の本質からは逸れており、幻想であるという事実は実に悲しいと言えます。
ここから目を背けるというのは難しく、求心力のある演奏を目指すならば、人のあらゆる感情を理解していなければならないゆえ多くの苦しみが伴います。
最後に、ソロモンの古い言葉を引用しておきたいと思います。
「わたし自らすべての骨折りと業におけるあらゆる熟練とを見た。それが互いに対する対抗心を意味するのを。これもまたむなしく、風を追うようなものである」- 伝道の書4:4(新世界訳聖書)
ここまで来て「しまった! こんなものを読まなければ良かった」と思われた方がおられたかもしれませんが、"成功"を目指すならいずれにしてもどこかで考えることになります。
成功とは、棘だらけの薔薇なのか・・・
すべての人にとって真の成功とは、虚心を悟ることかもしれません。