広東音楽の歴史

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広東音楽の歴史

 広東は中国最南部にあり、長安(西安)や洛陽、以後首都が移って北京といった中国の中心から地理的に離れたところにありました。それゆえ中国北方の芸能の影響は受けながらも比較的自由な発展をしてきました。清代には鎖国政策によって外国との交易が禁止されていましたが、広州のみ合法的に開放されており(これを「一口通商」という。日本では長崎に相当)ほぼ唯一の西洋文化の流入地となっていました。このような背景から私的な音楽愛好家の集まりがたくさん出来、これが広東音楽の形成と発展に大きな役割を果たしました。これを「私夥局」(si-fo-guk)といいます。私夥局は必ずしも決まった形式の集まりではなく、単に西洋音楽を鑑賞するために集まっていたものもあれば、新しい作品を生み出して活発に演奏するものもありました。しかしここでは、広東音楽、すなわち「粤曲」(北yue-qu、広jyut-guk)、「粤劇」(北yue-ju、広jyut-kek)に関係するものだけを扱います。(「粤」とは広東地方の古い呼び名)

 私夥局は清朝の中葉に興ったとされており、おおまかには以下の3つの形態があったとされています。

1,灯篭局

 「玩家」(wun-gaa)と呼ばれる音楽愛好家が周期的に人を集めて音楽を楽しんでいたもので、開かれていた時に灯篭を玄関に掲げて標としたのでこのように呼ばれています。参加を希望する人は入ることができました。多くは,「瞽翁」(gu-jung 盲目の男性で歌を歌い生計を立てる人)と「師娘」(si-noeng 女性はこちらの単語を当てる)を招いて歌わせ、玩家が楽器で伴奏する形式で進められました。
 灯篭局は広州の西関に集中しており、ここは元々広州城外の辺鄙な場所でしたが、清代に対外貿易で巨万の富を築いた商人や官僚などが住宅と別荘を相次いで建てて広州の新しい商業、文化の中心としたことによって、ここから広州の代表的な地方芸能である粤劇と粤曲を生み出すに至りました。
 灯篭局は徹夜で行なわれました。たいてい夜の7時から始まり、深夜頃になると主人は白粥と焼き竜門春雨(俗語では,「煲白妙竜」(bou-baak-caau-lung)という)を周意し、参加者全員でこれを食べて掛けてあ った灯篭を降ろして外客を謝絶しました。当時の広州は夜間外出が禁止されていましたので「煲白妙竜」を食べた後も解散せず、招かれた歌手は自分で楽器を弾き朝まで歌いました。
 瞽翁と師娘は、音楽に精通した玩家の指導を得てこれまでの素朴な形式の歌唱をさらに魅力有るものに変化させてゆき、このようにして今日「広東音楽」と呼ばれるものを作り上げました 。
 灯篭局は1949年の中華人民共和国建国まで私夥局の主要な形式として存続しました。

2,一族内の私夥局

何氏の広東音楽曲集  何氏家族は代表的なものとされており、広東音楽に最も大きな影響を残しました。何博衆は琵琶と作曲に優れ、一族の何柳堂(1874~1933)、何与年(1880~1962)、何少霞と共に広東音楽の早期の重要な啓蒙人物とされています。大地主の一族であった彼らは閑雅で余裕ある生活の中で音楽活動に励み、後に琵琶の何派、早期広東音楽の典雅派の代表とされ、名作を数多く生み出しました。今日広東音楽の代表作とされている,「雨打芭蕉」「餓馬揺鈴」「寮龍奪錦」は何博衆と何柳堂の作品であると伝えられています。さらに何与年によって作曲された「晩霞織錦」や「午夜遥聞鉄馬声」「筆筒英雄」などもあります。彼らは粤曲に精通し,小唄の作曲、粤曲の編曲、伴奏にまで造形が深かったと言われています。

3,鑼鼓椻

 広州郊外の農村と珠江デルタ地帯にも、私夥局に準ずる民間音楽組織として「鑼鼓椻」というものがありました。鑼鼓椻の多くは農民によって組まれ、これも人数と成員が固定されていなかったとされています。普段は夜間に練習を行い祭りなどの行事があると鑼鼓椻(御輿のようなもの)を担ぎ廻って曲芸を演じていました。上流階級によって生み出された洗練された音楽がこのような地方の私夥局にも伝播してゆき、このように層の厚い文化環境が広東音楽の基礎となっていると考えることができます。

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